今日は父の命日。先日17回忌の法事を西楽寺でやってきた。今日内仏に特別なことをせず。村上彦右衛門さんのように献膳したりしていない。
父のことを書いてみよう。父は大正12年生まれ。生きていれば今月で満99歳ということになる。おお、そうなんだ。
初職は国鉄だった。山陰本線の馬路駅が最初の職場だった。単身赴任介護が始まってしばらくしたころ、そこに行ってみた。鎌手から結構時間がかかる。車で1時間近くかかる。父はどうやって通っていたのだろう。
駅舎らしきものはあったが、当時は職員が何人かいたのだろう。下宿ではないだろうな。海の近くで、砂浜は鳴砂になっているぐらいきれいなところ。当時はのんびりしていたのだろう。戦争中だったのかな。
戦争中は広島にいた。経緯はまったくしらないが、宇品で被爆したらしい。当時の職場があったあたりに行ってみたことがあるが、様子は想像できない。資料等も調べてみたがそれほどの成果は得られなかった。終戦から益田にもどってくるあたりを調べて母に教えてやろうかとも思ったが、果たせずにいる。
父とは話らしい話をほとんどしていない。そういえば父が祖父と話をしているのを見たことがない。男系列というものはそういうもんだと子供ながら思っていた時期がある。
歳をとってから被爆体験を地元の小学生たちにしゃべり始めたが、私たち子どもはそれについて何も聞いていない。もっとも悲惨さを話されても困ってしまう。敵を討ってくれとは言わないだろうけど、何かを言われても、何もできない。他人である小学生たちに話すのは、それで価値があるかもしれないが、家族に語られたら、その反応をもっていくところがなく、まったく困ったであろう。
我が家には父が書き残した日記が20年分ちかくある。内容はまさに村上家乗みたいにな内容である。新内閣ができるたびに、そのメンバーが記してある。人とあった記録もある。それに家乗と同じように字が読めないのだ。難しい。私も当事者として登場してくる場面があるので、少しでも読めそうなものだけど、あまりのくせ字に、何度チャレンジしても読めない。
私が高校生のとき、学校で生徒会長に選ばれたことを父に打ち明けたことがある。母には内緒にしておいてくれと言ったのに、簡単に母にしゃべっていた。ああ、夫婦とはこういうものかとその時思った。子供に希望よりはるかに優先するんだ。
とにかく父とはほとんど話したことがない。あるんだろうけど、記憶にない。男親と息子とはこういうものなのだろう。子供のない私にはまったくわからない。そういうものなんだろうと結論付けておくしかない。