6月13日  母とふたりの毎日、日々の食事。小さなテーブルにふたり。食事は私が作るんだけど、私は上座に座る。昔みたいにご飯のお替りがあるわけではない

 かぼちゃの実が出来ているとお母さんが言う。私は昨日ずっと畑にいて作業したのにまったく気づいていない。今日言われるままに下の畑に行ってみる。よくわからない。お母さんが畑を見下ろす庭から場所を教えてくれる。なかなか見つからない。ようやくソフトボール大のぼっちゃんかぼちゃの実を見つけることができた。収穫して食べるのはいつのことだろうか。

 母とふたりの毎日、日々の食事。小さなテーブルにふたり。食事は私が作るんだけど、私は上座に座る。昔みたいにお替りがあるわけではないので、配膳したものがすべてだ。たのしい会話なんていつもいつもあるわけではない。

 単身赴任以降にこの家をリフォームしたので台所や、食事をするところはずいぶん狭くなった。ふたりで向かい合わせで座っていると私から見ると左手に流し台がある。準備したままの乱雑な流し台を目の前にして食事することになる。

 この家は大きい家なのだけど、台所に関しては安アパート台所まわりみたいな雰囲気になってしまった。ま、それはそれでいい。91歳の母と67歳の長男が一緒に暮らしている風景しかない。

 ふと、なにかの拍子に、今の状況は決してひもじい思いなんかしていないということを言語にした。いっぱいのかけそば話。年の暮れにいっぱいのかけそばを幼い子供3人ですすりあう」なんて情景はまったく想像できない。このお母さんのおかげでひもじい思いをすることなくのびのび育ったのだ。

 私は目の前にいるお母さんの体内から生まれてきた。不思議な感情だ。本で読んで得た事実ではない。絶対正しい真実だ。それはすごいことだ。否定できない。

 その事実をどうしたらいいか。私には確信がない。私の確信なんてちっぽけなものだ。誰も確認できない。

 配偶者のほうがまだ正しさがある。なにかの条件で出会った、それをいろいろ検討できる。しかし、目の前の母親というのは、絶対の真実で、どんな理屈をもってしても否定できない。それを日々確認させ、確認の深度を深めさせていくの今の毎日なのだろう。私は男だ。覚悟はすべて引き受けるしかない。

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