2024年7月19日 (金)

7月19日 「広島でタクシー配車アプリを使う」動画は需要があるだろう

高齢者施設に行って契約を行ったときの話だ。母を連れ出す用事があって、職員の人にタクシーを呼んでもらった。そのタクシーがなかなか来ないのだ。広島駅のすぐ近くにある施設なのに、平日の昼間にタクシーの予約が思うようにできない。わけを聞いてみると、最近では運転手不足でなかなか見つからないだという。職員の人たちはスマホでタクシー配車アプリなら容易に予約できると教えてくれた。

Uber Taxiという名前を思い出したが、他にもGO DiDiなどがある。新しいことを習得するのはおっくうだなあと思いつつ、DiDiのアプリを登録してみた。こんどいつか使ってみよう。

Youtubeで解説動画があるかと思いきや、最近作られた動画がほとんどない。Youtubeでは制作年月日が表示されるのでありがたい。作成日を表示しないWebページがあるのに比べると格段に良心的だ。「広島でタクシー配車アプリを使う」というような動画はきっと需要があるに違いない。3年前、4年前に作られたような動画ではほんとにそれが今使えるものなのか不安だよ。

「鎌手の動百科」に続く「牛田の動百科」「広島の動百科」いけるかもしれない。企画してみよう。

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今日、益田市自宅宛の郵便物が初めて広島に転送それてきた。転送届けを出して1週間。これでひと安心だ。でも7月12日に出発してそれ以降に届いた郵便物は益田の家に届いたままなんだろう。近いうちに回収に行かなくてはいけん。

2024年7月16日 (火)

7月16日 自分ファーストの母の言動に私は不満を言ったことはない

ひとり暮らしが困難になってきた母と同居し始めたのは4年前。私には大きな決断だった。広島での生活の多くをうっちゃることになった。

当初、母は近所の人に語ったらしい。私には子供がいないから親の気持ちが分からんと不満を言っていたとのこと。これにはショックだった。そんなふうに思っているかとがっくりきた。

そりゃあ分からんかもしれんけど、そんなことを他人に言うなよと思ったものだ。

私が食後の後に薬を飲んでいても、その薬が何の薬なのか一度も聞いてはくれなかったし、病気の心配もしてくれなかった。二年前の夏に眼の調子が悪くなって私が急きょ広島に戻るようになったときも、私のことを心配しているような言動はなかった。これには私も傷ついた。

親なら自分の事と同じぐらいに子供のことを気づかうもんだろうと思うのだが、そうじゃあなかったのだろうか。

土砂降りの中、私のクルマで美容院に送迎してくれというのも、ちょっと嫌だなと思った。自分の都合よりは息子の安全を心配してほしいなとも思う。もちろん私はそれに対して不満を言うことはない。

この年齢になって、こんなにも「お母さん」という言葉を何度も日常的に発するようになろうとは思わなかった。そのチャンスを与えてくださったことは感謝する。けど、私のことを気づかう言動をしてくれぬ態度には少し残念に思う気持ちがある。せっかく同居するようになったのだが、いつの間にか自分ファーストの態度をとるようになっていた母を残念に思う。

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2024年7月15日 (月)

7月15日 カボチャの煮物をもっと作ってやればよかった

母はこの度入居した高齢者施設でちゃんと満足な食事をしているだろうか。どんなメニューがでているのだろうか。

ついこの間まで、私が作った芋の煮物、カボチャの煮物、具沢山の味噌汁をおいしいおいしいと食べてくれていた。もうそれが出来なくなってしまった。こんなことなら、もっと何度も料理してやればよかったと悔やまれる。

2006年に父が死去して以来、母はひとりで益田の家を守っていた。その間はひとりで暮らしていたわけだ。ひとり分の食事を作るのは大変だと思う。たしかに私が同居するごろにはいい加減な食事しか作っていなかったようだ。

やれば出来ると強がっていたが、現実には小麦粉を湯で溶いて団子にしてそれを味噌汁仕立てのようなものをしきりに作って食べていたようだ。袋菓子などもよく口にしていたようだ。ああ、申し訳なかった。

私が同居して4年間、食事は私が作ってきた。私が作るといってもにわか勉強してはじめた食事作りである。肉うどん、味噌汁、野菜の煮物、野菜炒めなどなど急きょ家内に教えてもらったものばかりである。

私は五十歳ごろ広島大学を転出して単身赴任したが、そのとき自炊をやってみようとしたことがある。包丁まな板なべフライパンを買って、料理本を買いそろえてやってみたことがある。うまくゆかず。ちっともうまいものができない。職場には学生食堂があるものだから、朝、昼、夕ともにそれをもっぱら利用した。料理はできないままに定年退職を迎えてしまった。

母の介護ということで益田市に単身赴任。にわかに覚えた料理を母に食べてもらった。そのうちに煮物料理は作るのがなんとかなり始めて、たまにはおいしいといえるものができるようになった。実際母にはうまいうまいといってもらえるようになってきた。

食べることが楽しみだ、おいしいといわれるとうれしくなる。

しかし、いまふと考えると、私が作ったお好み焼きや肉じゃがなどは、完食はしてくれたが、おいしいとは言ってくれたことがなかった。やはり未熟な腕だったのだ。

私が作った料理は写真を撮っておけばよかった。もうそれができなくなってしまった。

やはり高齢者施設入りは母のためにならなかったのかもしれない。

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2024年7月14日 (日)

7月14日 母を高齢者施設に入れている間に家・墓を処分していいか

93歳の母を高齢者施設に入れている間に家・墓を処分してしまっていいものだろうか。母が入居して丸一日経過しないうちに家処分のことを不動産売買会社に依頼してしまった。

母はしきりに益田の家に帰ることができないのがつらいさびしいとこぼしていた。高齢者施設から益田に帰る可能性は0に近くてもまったくゼロではない。そんなと状態のときに、家も墓もきれいさっぱり処分してしまっていいのだろうか。

墓しまいは故人のためであり自分のためであり子孫のためであると納得して手続きを進めるということを長谷川裕雅『だれも継がない困った実家のたたみ方』家の光協会(2015)は言っている。理屈ではそのとおりなのだ。そのとおりなのだ。間違ってはいないと確信できる。

時間をおきたい。だらりだらりと実行を先延ばしして、刹那を楽しみたい。とはいえ自分にはそのグズグズをとがめてくれる子孫がいない。私がやるしかない。まあ、子孫がいたとしても彼らにやらせるのはむごいことだろう。

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2024年7月13日 (土)

7月13日 電話機設置がまだなので、私のスマホでLINEグループテレビ電話をセットして娘ふたりを呼び出した

お母さんがサービス付き高齢者向け住宅に入居して二晩目。今日の午前中、家から自転車で行って訪ねてみた。自転車で行けるほどの近さで良かったと思ったが、しばらく進んで、これでほんとによかったのかなあとしばし考えた。

訪ねたら、母はマスクがなくて困ったと言っていた。そんなはずはない。探すのが上手にできなかったようだ。

昨日の夕食の時に、みなさんに紹介されたらしいが、とくに自分でなにか挨拶したのではなさそうだった。

電話機が昨日取り付けできなかったので、今日は私のスマホを準備して、ベッドサイドにおいて、私の兄弟会LINEをテレビ電話で接続してみた。私の妹ふたりが出てくれて、30分以上母と話したようだった。楽しそうにグループ通話していたようだが、私と家内は食堂に行って、ケアマネジャと打合せした。

打合せが終わって部屋に帰ってみると、まだグループ通話している。ほんとお母さんは電話が好きだなあ。これなら1日でも早やく電話を使えるようにしなきゃあならんな。

今日は曇っていたが、それなりに暑い。

益田に戻って、家の片付けをしたい。でも母の入居直後なので、仏壇を片付けちゃあいけまあやあと気をまわす。私も確固たる方針があって日々過ごしているわけではない。

一日の終わり、冷たいお酒が飲みたい。サントリジャスミン焼酎1.8リットルを買ってきた。この銘柄は初めてだ。ロックにしてみたけど、大したことないなあ。鍛高譚のほうがいいぞ。

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2024年7月12日 (金)

7月12日 いよいよ入居、契約手続き中にひとり残された母は、トイレ照明スイッチが分からず不安になっていた

高齢者施設入居に必要な衣類掃除道具などを積み、母と家内を載せて軽自動車で益田を8時40分ごろ出発した。梅雨の最中であったがなんとか明るい曇り空。軽自動車であってもターボ車にしておいたのは正解であった。3人と生活用品の荷物を目いっぱい積んで、夏の坂道であっても力強く登ってくれる。クルマの操作に関しては若干の違和感あり。ブレーキ制動のときに、車重があるなあと感じた。小さなカーブを曲がるときに若干の後輪が外に膨らむかなと思ったが、勘違いかもしれないと思う程度。

母の乗車疲れを考慮して途中、多めにクルマを止めて休憩しようとしたが、緊張しているらしく、シートベルトを外して車外の空気を吸おうとはしなかった。私としてももう少し体をほぐして気分転換をしたかったが、早く着きたいという言葉に促されて、休憩は少なめになった。

広島に予定よりうんと早く着いた。昼ご飯を郊外の日本食店でとる。母の食欲は心配なかった。そのまま出発したのでは、施設に13時前に到着しそうだったので、途中、道の左側に止めて時間調整した。

13時半ごろ高齢者施設に到着、部屋に入れてもらった。

荷物を降ろしていると、契約書記入があるからというので部屋を離れた。その間は母おろしたばかりで開封していない荷物に囲まれて、ひとりで部屋にとりのこされた。

ケアマネジャやヘルパーとの契約を済ませて部屋に帰ってみると、母が半べそになっている。トイレの照明のスイッチが分からず、誰も周りにいなかったというのでとても不安に感じたようだ。そんなことの対応する満足にできない状態になっているのだろうか。

私と家内は電話機設置の手続きをするために広島駅近くのdocomoショップに出かけた。母がスマホや携帯電話を使うことができれば、こんな心配はしなくてすむのだが、しかたない。
docomoショップでは手続きに手間取って、開通にまでいたらなかった。高齢者施設に戻ってみると、もう、面会可能時間を過ぎている。無理をお願いして母に会いに行った。母は食堂で夕食の始まるのを待っていた。電話開通できなかったわびを伝えて、私と家内はいったん広島市内の自宅に戻った。

2024年7月 9日 (火)

7月9日10年前母は退院するも7月には再び圧迫骨折

母の老人施設入所は7月12日、あと4日しかない。準備に気をつかう。そんなとき広島で書棚を整理していたら、こんな本があった。10年前に買ったのだろう。
長谷川 裕雅/佐々木 悦子『だれも継がない困った実家のたたみ方 家・土地・お墓』,家の光協会(2015/10発売)価格 ¥1,430

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2015年というと、おかあさん退院して、7月に再び圧迫骨折している。そんな状況下で買った本なのだろう。本の状態はまったくきれい。私は全く何もしていなかったのだろう。

何もそれらしい対応をしなかったツケがいまにまわってきている。

牛田早稲田郵便局窓口に転居届を出してきた。益田市木部町に届く母宛の郵便物、私宛の郵便物を広島の私の住所に届けてもらうよう郵便局に届けを提出した。実際に転送されるのは1週間後ぐらいになるだろうとのこと。

老人施設入居に際して最初にかかる費用として351000円を本人に通帳からおろした。家内が立て替えていたので、今日返しておいた。新1万円札があるかときたいしたが、それはなかった。

通帳について、7/3に701779円の入金があるのを確認しておいた。母名義のある口座を解約したときの返金である。

2024年7月 8日 (月)

7月8日 友人Mさんのような生活

益田の家に未練がある。友人Mさんのような毎月2週益田滞在生活をやってみたいと家内に告げたら、呆れられ、笑われた。それで許してくれたのかな。よくわからん。家を片付ける間だけでも年内は益田に通うでいる。日程が決まる都度MさんにLINEしよう。まだまだ教えてもらわなければならないことがたくさんある。

2024年7月 7日 (日)

7月7日 指人形劇の台本を頼まれていたっけ?

人事異動に伴う引越しの準備をしていたら、全身黒い服の若い女性が私を訪ねてきた。「野村さん、お願いしていた指人形劇の台本出来ましたぁ?」えっ、覚えていない。その女性の名前すら思い出せない。

早朝の夢だった。話の展開が気になって、その指人形劇の台本を書いておこうと思って構想を練っていたら、二度寝になってしまった。夏の朝は早く起きないとすぐに暑くなってしまう。

短編小説を意欲的な書いてみたい気持ちになっている。これを活かそう。

2024年7月 6日 (土)

7月6日 同好会最前列に座った。予習ノートを忘れてきた。暑さのせいだ

炎天下のもと古文書解読同好会に出かけた。自転車だと風を切って移動できるので、経路さえ選べはなんとかなる。

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今日は席移動月で我が班は最前列。さあ、がんばりましょうとカバンを開いたら、なんと予習ノートを忘れてきてしまった。出かける直前にそれを開いて追加の予習をしたのが間違いのもと。ショック。

講師の目の前だ。本日の配り物だけなのが一目瞭然。

こんな失態初めてだ。暑さのせいだ。

必死になって古文書の字面を指さししながら追う。読み手の個所に合わせてうんうんうなづいて、さも予習完璧ですというようなしぐさをしてみせる。

嘉永六年六月廿ニ日、いよいよ江戸から報告が入る。浦賀に異国船がやってきたのだ。日本はいわゆる幕末の始まりだ。広島藩も村上彦右衛門さんもこれから異次元の忙しさになる。今日はちょうどその境目あたりをみんなで読んだ。
この広島の雰囲気、時代短編小説にできそうだ。