2024年11月23日 (土)

11月22日 正月に帰るところがない

広島でこの冬初めて石油ストーブを点けた。灯油は前季のあまりもの。そんなに古くはないだろう。ストーブは益田から持ち帰ったもの。

ふと気がつけば、今度の正月に帰るべき家がない。まったくなくなったわけではない。家、畑、山は以前のまま存在している。ただ次の代の持ち主が決まるまで誰からもかまわれることなく、山陰の冷たい冬を迎えている。すがすがしい朝を迎えても誰も外の空気を入れてくれない。夜冷えても誰も暖をとろうとしてくれない。冬に向かって畑の草を刈っておこうとするものもいない。

今年の正月はどうしたんだっけ。日記とパソコンの写真フォルダをクリックしてみる。門松を年末ぎりぎりになって作った。3年目ともなると上手になるもんだ。近所のおばちゃんにも出来栄えを見てもらった。おせち料理は地元スーパーが買い求めたおせち弁当のようなものを用意した。切り餅のキヌヤで買ってきた。母と私と家内の三人の最近よくあるパターンのにぎやかではない正月だった。益田でやっておくべき100のことというリストも作っていたぐらいだから、このときはすでに母の老人ホーム入居は想定していた。

子供のいない老夫婦というのは、とりまく環境が先細っていくばかりなのか。

さて、干からびたかけた過去のことを思い出してもせんなきこと。さて、もうすぐやってくる正月どうするか。正月というよりは、これからの楽しみ多き人生を一家の主人として設計していかなきゃあ。

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2024年11月16日 (土)

11月11日 神棚をしまう

神棚も仏壇と同様祭祀財産のひとつです。祭祀継承者がそれを引き継ぐのだが、その継承に手続き、届け出はいらない。適切な管理・維持・先祖の供養などの義務が生じる。
仏壇は仏具店に連絡して有料(約5万円)で引き取ってもらった。
神棚はサイズが小さいので、自分で取り外して、庭で焼却することもできたが、仏壇といっしょに引き取ってもらった。神棚しまいは、仏壇引き取り処分料金に含まれている。仏壇は西楽寺の御院家にお願いしてお経を読んでもらったが、神棚は特に大日霊神社に連絡はしなかった。
神事に必要な祭り道具、神棚に入れていたお札、花立もいっしょに処分してもらった。神棚を設置していた板の囲いはそのまにしてもらった。神事に使っていたお盆、湯飲み茶わんはいっしょに処分には含めなかった。9月、10月は大日霊神社神社の神主がやってきて執り行ってくれる宅神祭がある。澄み切った青空のもと、遠くから太鼓の音がしてふたりがやってくる。母が準備して、私が手伝って執り行った。

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こういう手続き所作もいっしょに仕舞ったのだ。母は広島の老人ホームで元気にしている。

2024年11月15日 (金)

11月10日 無縁墓にしないために

1.私が継いだ墓は、その後誰が守るのだろうか

私が継いだといっても、なにか儀式があったわけでもない。役所に届けたわけでもない。私の父である野村家第七代の野村一人が没した後、周囲をぐるりと見まわして、慣習的に私が墓を継いだということになっているようだ。いや、誰から言われたわけでもないし、その旨を宣言したこともない。私は自分が祭祀承継者であることから逃げたりはしない。

2.私が野村家の祭祀継承者である
祭祀継承者の行うことはつぎのとおりだと考える
(1)墓を守る
(2)法事を担う
(3)家の名前を継ぐ、後継ぎ
個人の家にとって墓の役割を考えてみる。法律があるわけでもないし、なにか参考文献があるわけでもない。
(1)その家の故人の遺骨を埋葬する場所
(2)故人の供養をすることにより遺族の心のケアをする
(3)供養文化を維持する
(4)墓参りをして心の安らぎ、安心感を得る
(5)子孫としての責任をまっとうしたという安心感を得る
(6)自分や家族が元気でいられることのありがたさを考える機会を得る
(7)墓を守る責任感、心の張りになる

2.墓を継ぐ人を祭祀承継者というのだろう

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2024年11月14日 (木)

11月9日 いい長男だと近所の人に言われたい

母がサービス付き高齢者向け住宅に入居して4か月になろうとしている。ときおり訪ねて行ってみるも、ちいさな部屋にじっとして、ときおり施設職員に対する不満を口にする。はあ、もう少し今の施設になじんで活動的になってくれないものだろうか。

入居前の4年間、私は広島から益田に移り住んで、母と同居した。食事を満足に作れない私に、そんなことができるか不安だったがなんとかこなせてきた。デイサービスに出かけるのを見送り、家の仕事をこなし、母の食事の世話をする。食事準備以外の家事は母がやってくれる。掃除洗濯食事の片づけ等々をやるが、その出来栄えはあやしい。生活をいっしょにしていると、不満もでくる。

月に一度くらい病院に連れて行く、たまの買い物につきあう。介護といってもそんなに大したことはない。寝たたりの母親を介護している同級生に比べたらはるかに楽をしている。

近所のおばちゃんたちと話をする。いままで地元に関係を薄くしていて、こんなときだけ、地元住民のような顔をするのは気恥ずかしいものだが、私はここで育っているので、なんとかなじめるし、事情も分かっているので話はできる。

そんな人たちが私のことを称して、いい長男だと言ってくれる。

私は、それがうれしかったに違いない。母は私の妹たちのことをよく話題にしてほめる。それだけでなく彼女たちの旦那のこともよくほめる。笑顔まじりに親しみをこめてほめる。それに比して、私のことはあまり言わない。家族の中の男をほめるのなら、私のことにもほめてくれと思う。私の妹たちが遠くから益田に来てくれたり、その旦那も伴って、あまつさえ、孫たちを大勢つれて益田にやってきてくれることも私にとっては苦痛だった。大家族が帰っていったあとも、母は私達夫婦のことをほめたりしない。おべんちゃら言うたりしない。言ってほしいと強くおもうわけではないが、それでも、ちょっとは言及してくれよとおもう。

私が広島から戻ってきて、母の世話をする長男ということで近所の方たちからほめてもらう。わたしのことをほめてくれるひとたちなんて最近はそんなにおらない。そんなわけで、その境遇を好ましいものととらえて気持ちよくなっていたのだろう。

大局を見誤ることになる。母の行動も少しずつ衰えていく。生活の基本的なところで出来なくなっていくことがある。洗濯機の操作がおぼつかない。ちょっとでも例外のことが起こると対処できなくなる。

そればかりではない。母を支える私たち長男夫婦の体制がいつまでも同じ出るわけがない。そのことに気が付いても気が付かないふりをしてしまった。

それもきっと、野村君はいい長男だと言われたかったから、それを演じつづけたのだろうと今なら思う。

人からほめられることを求めていると、きっと自分が大事にしていることを忘れてしまうかもしれない。自分が大事にしていることはほんとは大事なんだと気づこう。そうしている、大事なことを判断そこねるということに気が付かないでいる。

反省はするけど、じゃあ、それに気がついて、どうする。

ひとつ。いい子であることに重きを置かない練習をする。かっこ悪くても自分がかっこいいことをやつてみる。

ふたつ。大局を見る練習をする。それは無理だ。今までできなかったのだから。無理はやるまい。

みっつ。

もっと自分を大切にしよう。そう自覚しよう

。母のことも大事だけど、自分たちのことだって、それ以上に大切にちがいない。特定の、あるいはこれまでの常識にとらわれまいと意識するようにしよう。

2024年11月 8日 (金)

11月8日 DIYをしている友人がうらやましかった

DIYをブログで報告している友人がうらやましかった。男子であれば工作室、秘密基地、工房を持ちたいもの。それを見習うことのできる環境が単身赴任介護中にできたのが、ずるずる先延ばししているうちに、単身赴任介護が終わってしまった。

makitaの電動工具を少しずつ買った

。納屋の照明、電気コンセントを増設した。しかし工作室、工房にならなかった主な原因は、私の母への遠慮であったかもしれない。あの家は母のものだった。私の完全なる自由にはならなかった。
私が納屋を片付けて、画具や道具の配置を変えても、母はいつの間にか、自分流に、私には何も告げずに母の好きなように、元の配置に戻してしまうことが何度となくあった。

家の主導権は私にあるはず

なのだから、私の好きなようにすればいいのだろうが、母の説得にまでいたらかない。なしてかなあ。

あれだけの広さの納屋があったのだから、もっと私の好きに配置、改造できたはずだ。そうすればよかった。それができたのはそんなに期間は自由になかったのに。

今から思えば残念なことをしたものだ。4年も猶予があったのに、たいしたことにならなかった。私の熱意が足らなかったのだろう。

反省はするとしても、

今後にどう生かせばいいか

。ひとつはなにかやりたいことがあったら

後回し、さきのばしをせずに着手するよう

にする。いますぐにできることだ。

」着手しました、まだできていません」段階をYoutubeネタとして取り上げてみるのも有効だろう。
4年間のチャンスを使えなかったというみじめったらしい失敗を笑い話として多くの人に知ってもらうことが必要だろう。工作室実現を構想だけでで聞かなかった事件をYoutubeネタとして昇華させてみよう。そのまま扱うのが難しければ、形を変えて表現してもいい。YoutubeネタにすることをToDOリストとして挙げておこう。

2024年11月 7日 (木)

11月7日 物の処分あれこれ

大量のものをそれなりに処分したが、結局は個人でできることは限られてる。最後はお金を払ってプロにまかせるしかない

1.ふとん、衣類、和服、きもの、タオル、布製品
 燃やせるゴミとして、クリーンセンターに直接搬入。軽自動車ではたくさん積めない。

2.段ボール箱
 つぶして、束ねて自治会のゴミステーションに持ち込み。とんのすに入れて、少しずつ持ち込んだ。

3.陶器、ガラス食器
 古い家には大量にあるもんだ。自分で処分することをあきらめた。プラスチックの衣装ケースにぶちまけておいて、最後の残置物撤去にまかせた

4.家族の書いた日記、手帳、通信簿、卒業証書、旅行の土産物
 びりびりに破いて、庭で燃やした

5.写真、アルバム、
 遠くに住んでいる家族に来てもらい、必要とするものを渡した。後は庭で燃やした

6.家具
 軽自動車で運べるサイズの木製家具は、リサイクルプラザに直接搬入した

7.埋め立てゴミ
 リサイクルプラザに直接搬入した。コロナ期間中に、直接搬入できなくて困った。

8.家電製品・金属類
 自治会のごみステーションに持ち込んだ。ただし普段の燃やせるごみを出すステーションとは違うので注意。

9.ポリタンクに入った石油
 知人に差し上げた

10.引き出物、水ようかんなどの食品含めて
 箱から取り出し、中の布製品は燃やせるごみとして、外箱は資源ごみとして処理した

11.本、新聞紙、カタログ
  束ねて資源ごみとして出した

12.こぎれいな農機具、電気製品、楽器
 無料で差し上げますということで、ジモティに出品した。「どんなに少額であってもお礼は不要です」という条件を付けくわえた。

13.古い農具
 それなりに、庭で処分した。Youtube動画にして、記録とした。

14.履きつぶした靴、げた
 埋め立てゴミとして出した

15.額装の書、写真、飾り
 ばらして、それなりに仕分けて処分した。

16. 龍収書、納品書、見積書などの家の書類
 びりびりにやぶいて、もやせるゴミとして出すしかないよ。

17.ちょっと高価なもの
 高価買取店に持ち込み。でもね、たいていの場合、後悔すると思う。ニコンの野鳥観察用望遠鏡、買うときには高額であった。そう思って買ったときのことを覚えてる。しか、もう使わない。メルカリで相場を見ると1万円とかある。そんなに簡単ではないだろう。結局は広島市内の高額買取店に持ち込んで2000円。こんなことならジモティで、大事に使ってくださる方にタダでさしあげればよかったとちょっと後悔。

18.電動工具、細工のこなどの基本工具
 広島のマンションでひょっとしたら使えるかもしれないと考えて、結局は処分できず。

19.大量のたらい、バケツ、プラ容器
 処分に困り果てる。ようもこんなにため込んだもんだ。

20.カーペット、敷物、古タイヤ
 これらのものを先代は裏山の畑に、マルチとして持ち込んでいたが、とても困りもんです。畑にゴミカーペットを敷くと、しばらくは草が生えなくていいかもしれないけど、悲惨なことになる。畑はコチンコチン、ばらばらになった繊維は仮払いの刃に絡みつく。除去も思うようにならず。

2024年11月 6日 (水)

11月6日 小春日和の気持ちいい日に墓の解体工事

墓の解体工事が完了したとの連絡があった。工事に当たっては立ち合いはいらないということであったので、石材店の都合に合わせますと伝えてあった。今日のような気持ちの良い天気の日にやってくださり感謝です。

請求書はメール添付ではなく、別途送付とのこと。添付されてきたのは、解体工事の様子を写した写真だった。

さあ、確認のために益田に戻ってみよう。おっと家の鍵がない。不動産業者に預けたままになっている。

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2024年11月 5日 (火)

11月5日 目薬が欲しい 草餅が欲しい

実家の仏壇を片付けたときに、母がもらったであろう敬老祝い金の封筒が出てきた。中に二千円入っていた。母に渡すために広島に持ち帰ったが、そのまま渡したのでは工夫がない。

母の入居している老人ホームに行く前に、ゆめマートに立ち寄り、みかん2個、雪の宿、ガム2個、のど飴1袋都合289円分を買った。

今日の目的は、先日取り付けたテレビアンテナ線をプラスチックカバーを使ってうまく隠すことにあったが、それはとりつけなくてもすんだ。
部屋の様子は、入居当時に比べたら部屋らしくはなったが、まだまだひっこし間際のようなもの。早く落ち着いてほしい。

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今日も益田の家に一度帰ってみたいとぽつりと言っていた。でも私ははっきり伝える。益田の家にはもうなにもありません。ふとんありません。タンスありません。仏壇ありません。かわいそうかもしれないけど、そうなんです。もう、あきらめて、今いる部屋を作り上げていってほしい。

目薬が欲しい。草餅が欲しいと言っていた。私が来る前に電話で言うてくれればいいのに。まあ、また来ます。

益田の家が再びハトマークに出た。いったん売れたと思ったが、さあ、今日から仕切り直しだ。

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2024年10月21日 (月)

10月21日 仏壇の撤去

ひとりの朝、0.6カップぐらいのご飯を焚いた。しかし仏壇じまいをしてあるので、オッパンとしてあげるところがない。仏壇があっても、それはもうご本尊抜いてあるので、単なる物体なのだ。

仏具屋さんがふたりで元気よくやってきた。ああ、ついにこの日がやってきた。庭のナツメが色づいている。熟れすぎで食することはできないが、緑の葉の中に赤茶けた2センチ径の実は見ていてうれしい。

撤去の作業がやりやすいように庭の物干しざおの竿をどかしておいた。天気はいい。作業はどんどんはかどる。Goproの録画スタートボタンもちゃんと押すことができた。

1時間もしないうちに仏具屋さんが手際よく仏壇を分解して座敷から運び出してくれた。仏壇の裏板に父のメモ書きがあると仏具屋が教えてくれた。私は初めてみた。

昭和57年12月27日
野村一人59才
亡父清太郎遺産により

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家人なしに私ひとりのときに、仏壇や神棚を撤去してしまうとなにか心もとない。広島で老人ホームに入っている母に電話してみる。どう説明していいかわからないけど、それらしき雰囲気だけでも伝えたら私の気が休まるかもしれない。

電話の呼び出しのあと、電話をうけとれない設定になっているというメッセージあり。これはイカン。老人ホームのヘルパーさんに電話する。母の部屋に行って電気を見てもらうことを依頼した。

しばらくして返事あり。電話機に「ガード」というところにランプが点いており、電話がかからないという。やれやれ、手元に取扱説明書がない。あったとしても母に連絡の方法がない。困った、困った。いったん広島に戻って、ホームに行ってみるしかないけど、私が現物を見て修理対応できるだろうか。メーカーに持っていくことになるのだろうか。

2024年10月20日 (日)

10月20日 Youtubeは私の大切な関心事

今日は私ひとりで益田の家のかたづけをしている。ちょっとしたスキマ時間を見つけて動画撮影に出かけた。というか益田に在住できる時間が少なくなるのではないかという危機感から思わず行動したといえる。

昼ごはんは半田麺をゆでて、しょうゆをかけて食べた。いちばん簡単にすませた。そして母屋と納屋の中央にバルサンをセットして家を出た。バルサンはゴキブリやムカデに有効だと友人のMさんに教えてもらったのでやっておくことにする。

まずは木部の沖田川ちかくの額田部蘇提売屋敷付近に三脚を立てて動画を撮った。万寿の大津波はこの川を遡上して種地区に達したはずだ。高速道路山陰道の大きな橋脚が立ち上がっている。今日は日曜日なので工事は休みでしずか。工事現場の近くで撮影ができた。

私がYoutube動画をアップし始めたのは2020年4月ごろ。そのごろ買い求めた軽自動車ホンダN-WGNのカーナビでテレビを見たかったので、広島のディーラーに聞いてみると、Youtubeを見ればその方法がわかると教えてくれた。
それで、Youtubeのありがたみを知り、そのお返しをしたかった。私の改造作業の様子を録画して動画を作ってみた。私とYoutuber活動の出会いであった。

その年の9月に単身赴任介護が始まった。9月から益田に移り住んで、母と暮らすようになった。

覚え始めた動画づくりと、変化した環境が刺激となったのか、益田を対象にした動画づくりを始めるようになった。最初は近辺の植物を紹介する「鎌手の動植物動百科」シリーズである。30年前に私が作ったウェブサイト「広島大学西条キャンパス自然史博物誌」の動画版のようなものだ。

動植物以外にも寺社や地学ネタも扱うようになって、「鎌手の動百科」に統一した。農作業や門松づくりのようなヒット作品が出来た。万寿の大津波復興千年祭というビッグタイトルにも巡り合えた。いけいけどんどんのYoutuber生活が始まりそうだった。編集スタジオを作り、機材をそろえ、動画制作も上手になりつつあった。
いいことは長続きしない。90歳を越えて、わずかに元気のなくなってきた母を広島の老人ホームに入れるとなった。そのために益田でのYoutuber生活を変化しはじめた。これに注力したかったのに。

20日、これが益田での最後の取材になるかなあと思いつつ、秋の陽がかたむきつつあるのに、下種(しもだね)まで足をのばした。文献では確認できていないのだが、この地区には船冠山、焼け舟、イワミ水という万寿の大津波到達伝承地がある。もっとじっくり調べてからカメラを持ち込むべきであったが、いかんせん残り時間がない。

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農作業をしておられる方がいたので、質問してみた。大津波到達の話は聞いたことがないという。千年も前の話なので知っている人は少ないだろう。このあたりは昭和58年7月の豪雨災害がひどかった地区である。復旧工事は終わっているので、地形は大きく変わっているはずだ。しかし、この地区の人は歴史学習に熱心なので、学習の拠点である種公民館を訪ねてみるのは有効だろうと思う。今後の課題としよう。とは言っても、もうここを訪問するチャンスはないかもしれない。

陽が傾いて、夕方の風が冷たくなりつつあった。三脚をたたんで、県道を戻っていたら、道路をまたぐように太い竹が倒れている。軽自動車ならぎりぎりくぐって通行できるかもしれない。このあたりの走っている路線バスは立往生するかもしれない。あたりはしだいにくらくなりつつある。あたりに街灯がない。私はいったん通り過ぎたが、知らんぷりして立去るわけにもゆかず、近所の家の玄関チャイムを押してみたが反応なし。

しかたないので、スマホを取り出し110番にかけてみた。向こうはすぐに私の位置を確認してきた。島根県道171号益田種三隅線、「龍光寺の近くですね、橋が見えますか」と聞いてきた。さすが警察の対応。

しばらくその場で交通整理をしようかとも思ったが、近所のおばさんが出てきたし、私の帰り道のことも心配だったので、その場を後にした。
Youtube動画づくりは私のおもな関心事になりつつある。さて、単身赴任介護が終わって、益田での生活がなくなったとき、これをどうするか。

さらに言えば、私は今後どう生きるのか、何をあきらめていくのか。私の人生問題だ。