2024年5月 5日 (日)

5月5日同人誌の原稿締め切りが近づく。この度は彦右衛門日記を書いてみたい。

5月になってしまった。また同人誌の原稿締め切りの月になった。半年に一度出すものだから、けっこうせわしない。

書こうと思っていてなかなか実現していない「村上彦右衛門日記」を書いてみたい。読んでくれる人の顔を思い浮かべることができる。古文書解読同好会の仲間が読んでくれて、そしてクスっと笑ってくれるだろう。

安政2年6月15日の住吉祭の彦右衛門家を書いてみよう。西暦だと1855年7月28日だ。広島は蒸し暑いだろうけど、川風は気持ちよくなっている。幾三郎4歳だっかな、彦右衛門家の若党に連れて行ってもらう。彦右衛門の家では4歳の男子は若党に手を引かれて住吉祭にでかけることになっている。ここで男子ひとり旅を経験するのだ。28日ということは月は出ていない。夜道は暗い。けど住吉祭りでにぎやか。なにかが起こりそうで、起こらない広島の夜。
いいね、いいね。夕刻、平和公園のところにある大きな寺の境内を通り抜けていく。広島の子供たちが蝉取りに夢中になっている。蝉取り網を家小にねだったが、作ってもらえなかった。

この日の同好会資料は昨夜見つけておいた。参考資料18だ。読み込んで、周辺情報を集めよう。この日は東城家では給与の支給日だ。米価の変動についても、読者にわかるように説明してみよう。彦右衛門の性格を詰めておく。下女の名前は家乗にはでてこないが「おたま」にして、小太り陽気な性格に設定しよう。

忙しいんだけど、なんとか6月最初の締め切りに間に合わせよう。

三部作を想定しておく。第二部は家小、慈君の夜外出が面白くない話。第三部は彦右衛門さん怒りまくって若党を雇止めにしようとした話。これでいよいよ郷土作家デビューだ。

2024年5月 4日 (土)

5月4日 安易に設置したねずみホイホイ。その処分方法に気が滅入る。

お母さんをショートステイに預けて、その日のうちに広島に移動。8日間ほど広島で過ごす。その間益田の家は無人になる。そうなると、動き出す奴らがいる。ねずみ、ゴキブリ。ああ、しかたないんだろうな。

ショートステイの終わる前の日からこの家には人の気配が出る。それまでわがまま放題に走り回っていたネズミが人間の存在に戸惑っている。

ああ、いやだなあ。ねずみほいほいを買ってきて設置した。いやまてまて、これにねずみが捕まってしまったら、どうすればいいのか。ああ、見たくない。かと言って放置はできない。台所に2セット設置。ああ、どうしよう。

中を見ずにそのまま庭に埋める、あるいは燃えるゴミとして出す。ああ、それもいやだなあ。結局、庭で他のゴミと一緒に焼却処分した。ああ、いやだなあ。もう、二度と買うまい。ネズミ君たち出て来ても、知らんぷりしよう。このことを家内に報告してもいいもんだろうか。言われてうれしく思うだろうか。悩みは尽きない。

2024年5月 3日 (金)

5月3日 担当のケアマネージャに相談すべくデイサービス先に電話してみた

ふとん引っぱり出し、出雲の娘にすぐきてくれ電話の件を担当のケアマネージャに相談すべく、居宅介護支援事業所に電話してみた。
今日デイサービスに行っているお母さんに特に変わったことはないという。でも、担当のケアマネージャの人は5月6日まで休みだという。世の中ゴールデンウィークだもんね。

特に急ぎの電話ではありませんとは電話に出てくれた職員には伝えたが、これで終わったのでは子供の使いになるので、いちおう、昨日起こったことについては伝えておいた。ばたばたしたけど、落ち着いて終わったことも伝えておいた。

家族が自分の責任で対応すべきなのだが、一律ゴールデンなのでと言われても。FULLでなくてもいいので、休日対応のなんらかの仕組みを作っておくとか、してほしいなとは思った。

2024年5月 2日 (木)

5月2日 押し入れからふとんをひきずりだし、縁側にならべはじめる。便利屋さんに処分してもらうといいだす

広島に移るのはそんな先の話じゃあないけえ、もっていくもの準備しときんさいやあ、ここにリストがあるけえと言って渡しておいた。

しばらくして、そのリストに書いてあることがわからんわからんと言ってくる。リストの最初にあって「防炎カーテン」がいけんかった。眼の焦点がどこにいってしまったような表情でわからん、わからん。今日から始まった宅配弁当に対しても不安に思い始めたのだろう。これまで続いていた通所介護所から配食弁当は4月いっぱいで終わりですとされたのも不安材料になったのだろう。

押し入れからふとんをひきずりだし、縁側にならべはじめる。聞いてみてると、懇意にしている便利屋さんに処分してもらうといいだす。おいおい。

あげく、何を用意、どうしたらいいかわからんので、娘に電話すると言い出す。その電話だって、手が震えて、電話帳スイッチがまともの押せず、なかなか娘の名前にたどり着けない。左手を添えて右手を固定すればいいものを、右手を宙にうかせたままでスイッチを押そうとするものだから、そりゃあ2度押しになるわいね。

電話のあと、すぐ妹に電話して事情を説明。

お母さんには、広島に行くのはずっと先のことじゃけんと伝えたら、表情がすっぅぅと落ち着いて、しゃべりも安心したようになった。

2024年4月18日 (木)

4月18日昔からの墓を閉じても、昔からの屋号都屋を名乗り続けたいという気持ちは何なんだろうか

野村の家、墓はなくなるとしても、私が社会にかかわっている限りは都屋という屋号は残したいと思う。広島で、あるいは広島在住で大浜の都屋を名乗るというのはどんな意味があるのだろうか。

広島で社会的な行動をしていることは必要だろう。直接的な行動でなくても、作家活動のようなことでいい。Youtube作家でいいし、ブロガーでいい。そんなときに、出身地でしか影響しないような屋号を名乗るのはどんな意義があるのだろうか。

屋号って何だろう。苗字と何が本質的な違うのか。考えて、考えていこう。

家、墓を閉じてしまっていいのだろうか。おそれおおいなあ。私ではないものがそうするのであれば、許してあげる。

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私は積極的な意味づけをしたい。なくなるから広島で細々名乗り続けるというのではなくて、誇り高く、世界に向けてメッセージを発信し続けるための道具して有効活用してみたいと考えている。

2024年4月14日 (日)

4月14日 広島城天守閣第四層企画展示室開催の「企画展広島城の石垣」に行ってきた。質問独占のおっさんには閉口

企画展 広島城の石垣に行ってきた。最近石垣に関するYoutube動画を撮り始めていたので、石垣の話題をどう扱うのがいいのか知るために行ってみた。会場は広島城天守閣第四層企画展示室。図録、あるいはパンフレットのようなものがあれば欲しかったが、なにせ企画展の最終日。残っているはずがない。12月16日から始まっているのに、今になって行っても。気が付くの遅すぎた。

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展示でおやっと思ったのは、横に長い石垣を正面からとらえた写真。歪なく撮れている。これはどうやって撮ったのだろうか。ドリー撮影か、いや違うだろう。?3DCGという説明があったので、何枚かの写真を合成したものか。

11時から展示ガイドがあるというので、それまで待った。ちょっと行ってくるとでかけたものだから、あまり遅くなっては家人が心配するかもしれないと思ったが、会期中最後の展示ガイドであると聞いたからには待つしかあるまい。

15分程度のガイドは要領よくまとめられており、聞いてよかった。なにか質問ありますかという問いかけに、ひとりのおっさんが質問事項をたくさんならべて話しかけていた。質問はひとりにひとつぅぅぅ、心の中で思ったが、じっと我慢。そのひとは質問というよりは、自分の知識ひけらかしみたいで、いやだなあと思いつつ待つ。

2024年4月 2日 (火)

4月2日 父は晩年になって被爆体験を益田市の小学生に語り始めた。79歳のときだ

父は晩年になって被爆体験を益田市の小学生に語り始めた。私たち家族は被爆のことは何も聞いていなかった。
家の片づけをしていたら、豊川小学校の資料が出て来て、それに日付があった。それによりと、豊川小学校で語っていたのは79歳当時のことになる。
なにか思って語り始めたのだろうなあ。気持ちはわからない。推測もできない。

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私が今Youtubeで小学生に何か語っておこうと思う気持ちとなにか符合して興味深い。

2024年3月31日 (日)

3月31日 おじさん夫婦がやってきた。母は広島行きのことをちゃんと伝えたであろうか

こちらに住んで山陰道鎌手保存会の少しだけかかわって、楽しかった。もっと縁があれば、さらに成果を出してみたかったのだが、母のことを優先して、この地を離れようと思う。
会長ての寺戸さんに言おう言おうと思いつつ、3月末になってしまった。そろそろ新年度の総会の話を詰めておられるはずだ。去就について早く伝えねばと思いつつ、迷っていた。

メールで長い文章を書いてみようとしたが、いやいやまてまて、こういう時はやはり電話だ。①眼の調子あまりよくならない。②母が弱くなってきたので、広島の施設に入れたい、③家じまいもしようと思っている。④寒くなる前には完了したい。⑤山陰道鎌手保存会には1年しか参加できなくて残念に思っている、隔地でできることがあればやりたいので、言ってほしい。パソコンのことはまだまだ得意なので言ってほしい、などを手元に書いて、電話した。9月10月まででも役員としていることはできないだろうかと言ってくださった。ありがたい言葉だなあ。感謝。

今季初めてのタケノコ採りに行った。3月31日に10本収穫できたとfacebookの「この日の思い出を見る」がおしえてくれた。雨が少しやんだときを見計らって行ってみた。

墓にあがる道のまわりに出始めるだろうと予測して、ごりごりやってみたが、ないねえ。残念。1本もない。
午後は川崎本家の竹林に行って、竹を1本切り出した。幟をたてる柱を使おうと思い。長くて、まっすぐで、適当に細くていいのがあった。切り倒して、引きずって家まで持ち帰った。いいのが入手できたと思ったが、意外と太い竹だった。安全に幟を建てることは難しいかもしれない。家族のものに相談してみよう。

おじさん夫婦がやってきた。母は広島行きのことをちゃんと伝えたであろうか。私は竹の切り出しにでかけていて、その状況を確認できなかった。

3月30日 鎌手絵図で場所を確認して西楽寺旧地の場所を確認して、石垣を撮りにでかけた

母も家の片づけをやってくれている。この間なんぞは2階のタンスの中から、へその緒を引っ張り出してきた。お菓子の酢昆布のような大きさだ。軽い。興味本位に蓋をとってみた。桐の箱で、スムーズに開かないものだから、力をこめた拍子にブルってしまい、中の白い粉が飛び散って手についてしまった。不浄なものではないとわかっているが、後でしっかり手を洗っておこう。箱には何も書いてない。だれものなのか母に聞いても教えてくれない。

庭で燃やしてもいいものか尋ねてみたら、わからないという。デイサービスに行ったとき、誰かに聞いてくれと言っておいたら、先日の通所日に聞いてきたようだ。納骨堂に入れたらいいと言われたらしい。

それで、今朝、墓に行ってきた。納骨の扉を開こうとしたら、線香立て、その屋根が重い、重い。腰を痛めかねないほどに思い。ひとりで墓にきたものだから、自分でなんとかするしかない。

ようやく扉を開けた。中を見ると骨壺が3つ。そのそばにへその緒箱を置いて、納骨扉の板をもとにもどそうとすると、うまくはまらない。あせった。外す時は、かんたんに外れたので、それほど手順覚えをしておかなかった。困った。10分以上あれこれやって、なんとかはまった。
線香立てを置く台、線香立ての屋根が重い、重い。

ついでに墓の周りの樹を少し切っておいた。しばらく来ることができなくなるかもしれない。出来る限りすっきりしておきたい。

家のまわりの植木もなるべく小さくなるよう切っておいた。ツバキは枝を十分に空かせてやった。

午後はYoutubeの素材録画。今日は西楽寺旧地の石垣。鎌手絵図で場所を確認して、クルマに乗って出かける。鎌手絵図はよく描けている。そのとおりの山頂墓があって、登ってみた。あたりは草刈直後なので、なんとか歩くことができる。春先だから安心してあるくことができる。もう少し季節が進んで草丈が大きくなると通行はむずかしくなるだろう。

まるで古墳のような小さな山、ふにゃふにゃする道を注意しながら歩いて上ると、墓石の間に犬らしき獣が寝ていた。びっくり。むこうもこちらにびっくりしたように、すっとおきあがり走って逃げた。Videoが回っていた。ラッキー。いい絵が撮れた。でも怖かった。きつねでよかった。これが子熊だったら、たいへんなことになっていた。あたりに人影はないのだ。遠くに人家が見えているが私が叫んだところで、どうにもならないだろう。

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西楽寺の石垣は結局見つからず。残念。まあ、1本分の素材は撮れた。よしよし。

帰り道は、曇ってきた。出かけるときは晴れていたので、遮光眼鏡しか持ってこなかった。まずい。この時期曇ると景色は暗くなる。

キヌヤ遠田店で食材の買い物。腹を空かせていると、ついつい買ってしまう。

2024年3月29日 (金)

3月29日 母の高齢者施設入居をぐずぐす引き延ばして、益田での生活をだらだら続けたい気が少しづつ減少

家の片づけを少しづつやっている。物を処分することによって、片づけの実態を増やすと、少しづつ現実味を帯びてくる。今日の夕方は風呂小屋周りの樹を切った。庭木が少しずつ減っている。

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心の片隅では、母の高齢者施設入居をぐずぐす引き延ばして、益田での生活をだらだら続けることになるのかなあと、ちらりと思っていたりしていた。が。ここに三か月は状況が進展している。

母が嫌がっているからというのを理由にして、私自身が次のステップに進むのをおくらせていたいような気が少しはあった。

私は地域で頼られているから、益田を離れるなどという話をしたら、多くの人は引き留めてくれるんじゃあないかという期待をしていた。そんなことはありゃあしない。「あっそうですか」で終わりなことが多い。私がいなくてもみんななんとかやっていけるんだよ。まるで定年退職で去るときの広島大学附属図書館といっしょだ。私が定年でさっても、誰も困りはしない。あとのもの、まったくなんともなく、ちゃんとやってゆける。そういうもんよ。

私自身みれんなんかもたなくてよかつたのだ。今の状況といっしょなんよ、きっと。ナルク益田だって、きっと「はいそうですか」と言われるだろう。町内会だって、「はいそうですか」で終わりで、誰も困りはしない。山陰道鎌手保存会だって、「はいそうですか」で終わり。ほかの元気な年配者はたくさんいるし、若い人もどんどん参加してきているんだと思うよ。

もう、私自身が広島に移って、広島で友人知人はすくないけど、そんなこととは関係なしに、幸せになろうよ。お母さんが近くに住んでくれれば、それに越したことはないよ。

数日前の夕食の時、母とゆっくり話をした。家を閉じてしまうのは、申し訳なく思っている。こんなに江戸時代から続いてきたような家を私の代で終わりにしてしまう。ごめんと。

悪いことをして益田を去るのではないから心配しなくていいと母は言ってくれる。ありがたい。

いらいらして母に当たるのはもうすまい。すまいと思いつつ、ついイラっとしまう。

若い時であれば、息子というものは母親に反発しながら大きくなっていくもんだと自分に思い込ませたりするのだが、この状況になれば、母のことをもって思ってやらないといけないのだろうとも考える。